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天地人

今回のNHKの大河ドラマの「天地人」の織田信長は、一度の「敦盛」を口にしなかった。
昔から信長と言えば、「敦盛」の「人間五十年 下天のうちにくらぶれば・・・・」が定番だった。
そういえば、最近では本能寺に「濃姫」の顔を出さない。
歴史にとって、資料が大切なのは当然であり、資料次第で定説が覆ることもたび゛たびである。
本能寺も最後は爆発したが、あれなら信長の首も見つけられなかったことに合点がいく。
同じ資料であっても解釈により、展開が変わっていく。
だからこそ、歴史はおもしろいのだろう。

テーマ : 日記
ジャンル : アフィリエイト

ボチボチ書き始めないと・・・

歴史的背景は形になってきましたが、これをどうやって現代の事件に結びつけるか悩んでます。
初めての時代物に挑戦しようとも思いましたが、やはり時代劇の台詞は難しいようです。

柳生宗矩(やぎゅうむねのり) (1571―1646)

柳生宗矩(やぎゅうむねのり) (1571―1646)

大和(やまと)国(奈良県)柳生藩の祖。江戸初期の代表的な剣術家として知られ、新陰(しんかげ)流江戸柳生家の初代。柳生石舟斎宗巌(せきしゅうさいむねよし)の五男で、初名新左衛門、通称又右衛門(またえもん)、のち但馬守(たじまのかみ)。幼少のころから父宗巌に剣の手ほどきを受けて、その英才を表し、1594年(文禄3)23歳のとき、徳川家康の招きを受けた父に伴われて、京都西郊鷹峯(たかがみね)の陣屋において新陰流を披露し、その技を嘉賞(かしょう)され旗本の士に採用された。関ヶ原の役には石田方の後方牽制(けんせい)の特命を帯して大和地方の豪族工作にあたり、戦後その功によって柳生の旧領2000石を回復し、さらに将軍世子秀忠(ひでただ)の兵法指南を命ぜられて1000石を加増され、やがて新陰柳生流が将軍家の御流儀(ごりゅうぎ)として長く用いられる地歩を築いた。1614年(慶長19)の大坂冬の陣には徳川方の嚮導(きょうどう)役を勤め、続く夏の陣後には千姫(せんひめ)救出に絡む坂崎出羽守成政(さかざきでわのかみなりまさ)の反抗事件を収拾することに成功し、また外様(とざま)大名の伊達正宗(だてまさむね)をはじめ、細川、鍋島(なべしま)、毛利(もうり)などの諸家と親交を結ぶなど、その政治的手腕も高く評価されるようになった。

1621年(元和7)宗矩50歳、将軍世子家光(いえみつ)の兵法師範を託され、その将軍就任後も引き続き厚い信任を受け、29年(寛永6)には従(じゅ)五位下但馬守に任じ、さらに加増を受けて高6000石の大身に栄進し、将軍側近の御使番組頭(おつかいばんぐみがしら)のシンボルである「五の字(ごのじ)」の旗指物(はたさしもの)の使用を許された。32年には総目付(そうめつけ)(後の大目付)に補せられて、諸大名の監察役となった。一方、これを機に鍋島元茂(もとしげ)、細川忠利(ただとし)ら大名門人の協力を得て、新陰柳生の伝授体系の確立を図り、紫衣(しえ)事件で羽州上ノ山(うしゅうかみのやま)に謫居(たっきょ)中の僧沢庵(たくあん)の赦免に尽力し、許されて江戸へ帰着した沢庵の助力を得て、『兵法家伝書(へいほうかでんしょ)』(3巻)を完成させた。その後も御伽衆(おとぎしゅう)として家光の側近にあり、39年には加増されて総高1万石を領し、大名の列に加えられ、さらに1万2500石に上った。正保(しょうほう)3年3月死去、翌4月破格の従四位を追贈された。

[執筆者:渡邉一郎]

福島正則の改易と晩年

改易と晩年
家康死後まもなくの元和5年(1619年)、台風による水害で破壊された広島城を無断でほんの少しだけ修理したことが武家諸法度違反に問われる。正則は2ヶ月も前から届けを出していたが幕府からは正式な許可が出ていなかった。しかも修繕したのは雨漏りする部分をやむをえず直しただけという。江戸参勤中の正則が謝罪し、修繕した部分を破却するという条件で一旦は沙汰止みになったものの破却が不十分であることを咎められ、安芸・備後50万石を没収、信濃国川中島四郡中の高井郡高井野藩、越後国魚沼郡、4万5000石に減封される。

これは過激な武将である正則の統制策とする理解が一般的だが、家康死後の二元政治廃止に伴う本多正純と土井利勝らの幕府内権力争いにまきこまれたという説も提示されている。正純が受け取った届出を利勝らが正純の信頼を失墜させるためわざと放置していたと言うものである。最終的に改易を強行したのは2代将軍・秀忠だが、利勝や正純ら幕府首脳はむしろ正則の改易が諸大名の反抗に繋がることを恐れ、処分に及び腰であった。

元和6年(1620年)に嫡男・忠勝が早世したため、正則は2万5000石を幕府に返上した。寛永元年(1624年)、高井野で死去。享年64。

この際、家臣が正則の遺体を幕府の使者が到着する前に火葬したため(一説には正則が屈辱に耐えかね切腹したのを咎められるのを恐れこれを隠蔽するために急いで火葬にしたとも言われる)、福島家は残りの2万石も没収され、後を継いだ正則の子・正利は3000石の旗本に身分を落とすこととなった。

黒田如水

慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉が死去した。如水は同年12月に上洛し伏見屋敷に居住したという。この頃、如水が吉川広家に宛てた書状が残されている。

「かようの時は仕合わせになり申し候。はやく乱申すまじく候。そのお心得にて然るべき候」
これは、如水が遠からず天下の覇権をめぐって大乱が起きると予想していたことを窺わせる。慶長5年(1600年)、徳川家康らが会津の上杉景勝討伐のため東へ向かうと、7月17日(8月25日)石田三成らが家康の非を鳴らして挙兵し(西軍)、関ヶ原の戦いが起こった。嫡男・長政は家康の養女を正室として迎えていたことから秀吉の死去前後から家康に与し、豊臣恩顧の大名を多く家康方に引き込み後藤基次ら黒田軍の主力を率いて家康に同行、関ヶ原本戦で武功を挙げた。

この頃、如水は九州にいた。石田三成の挙兵の知らせを用意させていた早舟から受け取った如水は、家康方(東軍)として行動を開始した。兵力の大半は長政が率いていたため如水は金蔵を開いて領内の百姓などに支度金を与え、9千人ほどの速成軍を作り上げた。9月9日(10月15日)、再興を目指して西軍に与した大友義統が毛利輝元の支援を受けて豊後に攻め込み、東軍の細川忠興の飛び地である杵築城を包囲攻撃した。城将・松井康之と有吉立行は如水に援軍を要請、同日、如水はこれに応じ、1万人と公称した兵力を率いて出陣した。道中の諸城を攻略した後、9月13日(10月19日)、石垣原(現在の別府市)で大友義統軍と衝突した。黒田二十四騎に数えられる母里友信らの活躍もあって、黒田軍は大友軍に勝利した。

その後、如水は西軍に属した熊谷直盛の安岐城、垣見一直の富来城、太田一吉の臼杵城、毛利高政の角牟礼城と日隈城、毛利勝信の小倉城、毛利信友の香春岳城などを次々と落としていった。国東半島沖の豊後水道付近では関ヶ原より引き上げてきた島津義弘と立花宗茂と戦い軍船を焼き沈めている。そして11月に入り加藤、立花、鍋島勢を加えた4万の軍勢で九州最後の敵勢力である島津討伐に向かったが11月12日に肥後の水俣まで進軍したとき、徳川家康と島津との和議成立による停戦命令を受け、軍を退き解散した。

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